愛知県美浜町でペット火葬・ペット葬儀を行う寺院が母体のペット霊園です

法人情報

天台宗 甘露寺

愛知県知多郡美浜町河和北屋敷1

略縁起
 名鉄の河和駅を降りると、その前を一本の川が流れております。台風後の洪水の時などは、この辺り一面が沼地の様になったとも聞いていますが、甘露寺は駅前の橋から見える小高い丘の中腹に建っております。
 先代住職豪円大僧正は、ことのほか境内の眺めを愛し、戦後しばらくの間は避暑地として海水浴客に書院の一部を開放しておりました。今はこの地の海水浴場も閉鎖され、そのような姿はありませんが、秋には境内の紅葉や銀杏が、知多半島にはめずらしい程の色付きを見せてくれます。
 甘露寺の開創年代については定かではありませんが、享保元(1716)年、智鋒僧正が書き残した記録によると、その昔河和の庄が京都二条甘露寺家の所領の時代があり、その氏寺として建てられたのが甘露寺であるといいます。その実、甘露寺家と河和の関係も定かではありませんが、本尊の地蔵さまは聖徳太子御作と伝えられております。
 本尊の地蔵菩薩は秘仏のため、直接御参りはできませんが、鑑定された先生の話では鎌倉時代の作であろうとのことです。聖徳太子が刻まれた仏さまではなさそうですが、美術的には高く評価されて町の文化財に指定されております。また、河和郷の始まりもこの頃と伝わっており、村落の歴史を共に歩んできた仏さまでもあります。
 寺といえども歴史の中に身を委ねております。豊臣秀吉の時代、寺領の殆んどを没収されて、廃絶に近い状態になりましたが、忠盛法印が中興したといわれております。その復興に力を貸したのが、河和城主戸田孫八郎で、天正10(1582)年の頃だと伝えられております。戸田の一族はその後、水野の姓を名乗る様になり、河和の地頭として代々変わらぬ信仰を寄せたと伝えられております。
 特に、水野忽右衛門康寛の奥方がしばしば流産に見舞われて苦労しておりましたが、当寺の本尊に安産を祈願、無事子宝に恵まれました。このことから本尊さまは腹帯地蔵と親しまれるようになり、安産の仏さまとして信仰を集めてきました。
 江戸幕府の崩壊による明治政府の政策は、多くの寺院に影響を与えることとなり、当寺の受けた影響も計り知れないものがありました。結果として無住状態が長く続き、なすすべもなく荒廃するに任せておりました。そうした中、豪円大僧正が入寺して復興に努め、今日に至っております。
 特に本堂は昭和19年の震災によって崩壊、戦後の混乱期に無檀家ながらも24年には再建にこぎつけております。
 また寺院経営の一助として昭和26年に保育園を開園、当地域の先鞭となりました。今は園の運営も町に譲り、寺域は静けさを取り戻しております。そして境内には山野草が植えられ、季節毎に美しい花を咲かせております。

〔本尊〕地蔵菩薩
〔開基〕天正元(1573)年
〔開僧〕忠盛法印大僧都
〔寺宝および文化財〕地蔵菩薩(聖徳太子作)町文化財、御前立腹帯地蔵(鎌倉時代)、阿弥陀三尊像、  
聖徳太子像
〔主な年中行事〕3月 彼岸供養、8月23日 地蔵盆施餓鬼供養